沖縄戦での大きな犠牲

私は出征する数年前、師父長順から言い渡されたことがある。サンセールーの形の指導を受けたときである。「これまで教えたことはおまえの体のなかにしっかり覚えておくように」と。戦争の不安がよぎったのだろう。そのときの師父のことばが剛柔流空手道を私に託した遺言のように思えるのである。師父の弟子のなかでも新里仁安は師父の信望も厚く、大日本武徳会へ演武者として派遣するなど実力があった。私の出征時に、師父は「もし自分に万が一何かあった場合、仁安(私はジルウおじさんと呼んでいた)に相談するように」と言ったことばが思い出される。しかし、その仁安は終戦の年に戦死し、師父の落胆の大きかったことが推察される。

師父は戦後も沖縄県警察学校で教えながら、門弟の指導にあたった。しかし、沖縄戦での大きな犠牲と損失を考えると、師父は精神面でも大変だったと思う。戦後復員して東京に居た私と師父との交流は、何回となく手紙やはがきのやり取りになった。空手道に一生を捧げてきた師父は、「空手道の将来」が絶えず念頭にあったのだと思う。私宛てに書をしたため上京する意思を示したが、その翌年、1953年(昭和28年)10月8日に心筋梗塞で急逝した。満65歳であった。空手道界において誠に大きな損失であった。

科学的空手道へ指導体系を確立

在来の空手道は、一拳必殺といわれるように、もっぱら実戦の場での殺傷の武術として発達してきたもので、術技のうえでも、現在の教育的見地からみれば、不適当な点もあった。

このため宮城長順は基本形―剛の形(サンチン=三戦)のほかに、「六機手」というものを研究して柔の形(テンショウ=転掌)をつくった。「機手」とは中国南拳の上肢の動作および技法のことを言い、沖縄に伝わった『武備志』のなかで相手の急所(経穴)を突く際の手(開掌)の使い方が述べられている。宮城長順はこの手法を研究し、鍛錬形としてテンショウを創始した。また、東恩納寛量から鍛えられたサンチンの立ち方と運歩法をはっきりと定義づけたのである。

サンチン、テンショウは首里手派にはなく、剛柔流空手道独自のものである。この基本形の鍛錬法においては、気息の呑吐法(陽の息吹)という形式化された独特な呼吸法があり、指導者による筋骨の締め方を伴う鍛錬法がある。こうした鍛錬法を通じて、「術技の変化」「気息の呑吐」「重心の移動」を体得するのである。

さらに宮城長順の創始したものとして、基本形・開手形に入る前に行う徒手体操式の空手道術技に関連した「予備運動法」と、柔軟で強力な体力を養成しながら空手道術技の上達を側面的に援助する補助運動法がある。この予備運動は修練上、非常に合理的な運動法であり、その重要性は計り知れないものがある。講道館柔道の創始者嘉納冶五郎が沖縄に来られ、そのとき師父が空手道の解説をしたのだが、嘉納師範は予備運動に非常に感心され、後の柔道体操に取り入れられたのではないかということを、私は師父から聞かされた。

また、教育的観点から、剛柔流空手道の普及形として、ゲキサイ(撃砕)第一、ゲキサイ第二の形を創始した。剛柔流空手道の形は、サンチン・テンショウの基本形と、二つの普及形を含めた十の開手形とを合わせ合計十二の形がある。

宮城長順は漢籍の素養はもとより、地理・歴史の造詣も深く、東洋文化にも通じていた。辞書を枕に絶えず辞書を繙き思索していた師父の姿が忘れられない。とりわけ薬種の知識、人体の生理に詳しく、常に医学的観点から空手道を研究していた。知人にも医者が多かった。そして空手道を近代的、科学的視点から考究し、練習体系として組み立てたのである。従来の空手道指導法を理論と実際に照らして修練の順序、方法を定め、武道として体育として、また精神修養の方法、健康法として、科学的に組織体系づけたのが剛柔流空手道である。

空手道剛柔流宗家として

剛柔流開祖宮城長順の長男として1919年(大正10年)8月那覇市に生まれた私は、幼少のころより師父の空手道人生と歩を一にしてきた。日常生活のなかで教えてくれた「手」の使い方、「足」の使い方、あるいは道を歩くときの注意、傘の持ち方等々、それら一つひとつが空手道における身体と精神の在り方の教訓であった。師父は人との交際も広く、沖縄在住の高名な方々や沖縄に来られた軍人や文人の方々について私によく語ってくれた。師父は、そうした広い交際をとおして、いわば教養人でもあった。私は常に師父の傍らに居ることで、その生活に溶け込んだ空手道精神と、その人生観、人格から多くを学ぶことができた。

私が京都の武道専門学校の夏期講習で剣道を修めたのも師父の奨めであった。この剣道修行は、私の空手道修行に新たな眼を開かせてくれ、掛かり稽古をはじめとした剣道の修練方法は、後の私の空手道指導法に大いに役立った。

師父の私への指導は、「予備運動」をまず徹底してやることだった。私はこの予備運動を「剛柔体操」と名づけ、弟子たちの修練の最初に必ず行わせている。師父はまた、サンチン立ち、四股立ち、猫足立ち、前屈立ちなど立ち方をしっかり定義付け、非常にやかましく指導した。形の修練では、形の中にそれぞれ、立ち方、手の使い方、蹴り足の使い方、演武の方向などの様々な特徴があり、それらがどういう意味をもっているか、よくよく考えて修練するように言われた。

剛柔流空手道の形においては接近戦における妙技が至るところにある。これらはことばでもって十分に説明できるものではない。どう理解するかは修練者の武才というものもあるだろうが、やはり空手道の修練には良き師を得てはじめて真の空手道を会得するものであると思う。

私は師父宮城長順の死去により、空手道剛柔流宗家を受け継ぎ、空手道剛柔流宗家講明館を開設、講明館館長として東京において空手道の指導にあたってきた。私の指導法は、開祖宮城長順の指導法と指導精神を基礎に、戦後、私が考案した指導法の実際を取り入れて行っている。

講明館の設立と指導理念

私が東京で空手道を指導し始めたのは昭和26年ごろである。戦後いち早く、わが国の空手道界では、各流派などによる団体結成の動きが見られ、また大学の空手部を中心とした連盟が結成されるなど、今日見られるように全国的な発展へつながっていったわけである。その間、私のもとに団体設立のために参加を求める声が何度もあった。しかし、私はどうもその在り方に同調できないでいた。私は独自に日本空手道剛柔流連盟を結成、剛柔流空手道宗家講明館を設立し、そこを本拠に指導に当たることにしたのである。

1963年(昭和38年)に空手道の初心者向けに『空手道の楽しみ方』や『正統 空手道入門』を出版、正しい空手道の学び方を世に問うた。また、NHKから請われ1964年2月1日放映の教育テレビ番組「現代の記録・精神復興」に出演し、サンチンの指導と形セーパイを演武した。このころ日本武道館の建設に着手され、「人づくり」の問題が高まっていた。日本武道の精神的なものを模索しようとしたのがこの番組の目的であった。その後、私は1966年(昭和41年)に東京・国立市に道場を構え空手道の指導に本格的にあたった。

私の指導理念は、師父宮城長順の指導法と空手道精神を基礎に、空手道本来の伝統性を維持しつつ、同時に教育的・体育的観点から身体のもつ攻防の技を自在に体得できるようにすることである。

空手道が全国的に普及したとはいえ、昨今、空手道の真の伝統性が失われ、いわゆる「競技空手」に終始した指導が見受けられるのは誠に残念である。最近は「形試合」も行われるようになったが、形の意味がわからずに演じられていたりして、形の乱れが目に付くものもある。したがって試合の審判方法と各流派の形についての研究をもっと真剣に行うべきだと思う。「形に始まり形に終わる」という空手道修行の警句を忘れてはならない。