剛柔呑吐 攻防自在
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コラム「日本人のツボ」

空手道の競技化

2011/02/03

サッカー日本代表がアジア杯チャンピオンになった。選手に故障者を抱える中で全チーム一丸となったプレーがカタールでの勝利につながったという。テレビに釘付けになった観戦者も選手の妙技に感動し、心躍らせたことだろう。スタジアムでの壮絶な闘いと観戦者の熱狂。スポーツは競技者をつなぐおびただしい観戦者なしには成立し得なくなっている。

その最たるものが国際オリンピックだ。国家の威信をかけたスポーツの祭典として政治的に利用もされてきた。

講道館柔道の創始者、嘉納治五郎師範は1938(昭和13)年に第12回国際オリンピック大会の東京招致へ79歳の高齢をおしてカイロのIOC総会に出席し、招致を約束させた。氏はその帰国途中に亡くなられたが、日本の武道である柔道をオリンピック種目に加えることは些かも念頭になかったようである。

柔道をオリンピック種目へという動きが活発になったのは国際柔道連盟(IJF)が結成されてからであるが、このIJFの前身は1948(昭和23)年結成の欧州柔道連盟。1951(昭和26)年にIJFと改称した。翌年1952年にスイスのチューリッヒで開催された第1回IJF総会で日本の加盟要請が正式に決められ、日本はその年、全日本柔道連盟が臨時評議員会を開きIJF加入を正式に決定、IJFへ加盟を申し入れた。会長に講道館館長で全日本柔道連盟(1949年結成)会長の嘉納履正氏(嘉納師範の次男)が1965(昭和40)年まで3期を務めた。日本人の会長職は1979(昭和54)年に松前重義氏(東海大学創設者、1901ー1991)が1987(昭和62)年まで三代目に就任しただけ。以後IJFの役員人事は改選の度にもめる。1995(平成7)年に千葉県の幕張メッセでの世界柔道選手権大会開催を直前に開かれたIJF総会では、「オリンピックの準備運営に支障をきたすため、会長、スポーツ理事、審判理事の役員改選はオリンピック後の総会で行う」という理事会提案が承認されたほど。

スポーツは組織化されることで、否応もなく政治の表舞台に出ていく。組織化はスポーツの普及と継続的な発展に確かに大きく寄与してきたし、スポンサーを得ることで選手の実力増進につながった。組織化が可能になるためには競技化が前提だ。しかし、そこに必ず政治というものが顔を出す。問題は、選手の主体性が無視され、役員人事のみならずルールづくり、審判判定までいたるところで政治がものを言うことだ。

戦前、日本武道の総本山として武道全般を統括していたのが大日本武徳会(1895年=明治28年創設)。武道認可の権限を有していた。日本古来の多種多様な武術が武道となるためには国家的な組織が必要だった。明治という時代的な背景もあっただろうが、空手道も同じ道をたどる。大日本武徳会は太平洋戦争の終結によりGHQ(連合国軍総司令部)から解散を命じられたが、戦後徐々に各武道は組織化をはかっていく。空手道も例外ではない。

柔道がオリンピック種目として行われたのは1964(昭和39)年の第18回東京大会。日本武道館もその年に完成した。武道という言葉もにわかにマスコミに登場、武道再興の機運も高まった。国際試合の中でお家芸柔道という言葉が日本柔道界の枕言葉として使われ、何が何でも金とのプレッシャーが選手にのしかかる。ポイント制判定の中で外国選手はしたたかに有利なポイントを重ねる戦法をとる。対して一本をとることが武道柔道の真価と日本の選手は苦慮する。判定勝ちしてもどこか吹っ切れない日本選手。国際競技化された柔道の抱える問題は大きいだろう。

剛柔流二代目宗家宮城敬先生は、「接近戦において妙技が発揮される空手道において、武道精神と技の真価が失われることなく正確な判定と厳正な試合形式で、だれもが納得できるような競技でなければならない」と、競技試合の真のあり方を語っている。

苦しい日々の鍛錬を乗り越え試合に臨んだ選手。勝敗の如何を問わず戦い終えた自己に満足し勝者に敬意を示す謙譲さ。観戦者は確実に両者を評価するだろう。観戦者と選手が一つにつながり、あのサッカーでの熱狂にも似た大きな感動が会場にたぎるはずである。

いま新しい武道のあり方が問われている。(無胆)

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